4 ヘビー級専属トレーナー


オーディションと平行して、佐藤は新しいトレーナーを探していた。

幡野のほかにジムには種川順司、宮本和則という専属トレーナーがいるが、彼らは練習生の面倒で手一杯であるし、

「ヘビー級にはつきっきりで面倒をみるトレーナーをつけたい」

というのが佐藤の願いだった。

何人か紹介してもらったが、これは、と思える人材が現れなかった。

出会いはひょんなことから生まれた。

公開オーディション前、すでに相模原ヨネクラジムへの入門が決まっていた福田は、自宅から近い横浜のジムで個人的にトレーニングをしていた。

八月中旬のある日の午後、サンドバッグを打っていた福田のところにジムのスタッフが寄ってきて、

「福田クン、キミは春日井さんを知ってる?」と聞いてきた。

「いいえ、知りませんけど」

「じゃ紹介しとこう、ちょっとこっちへきて」

とジムの一方へ連れていった。そこに見事な髭をたくわえた男がいた。

「福田クン、こちら昔フライ級で活躍した春日井健さん、左フックのスペシャリストだよ」と紹介すると

男は、

「左フックだけじゃないよ」と返した。

面白い人だなと、福田は思った。

「彼がこんどへビー級で復活することになった福田クンです」

「どうも。コンニチワ」

このとき春日井は、中学生になる息子が、ボクシングをはじめたいと言いだしたので、やはり自宅から近いこのジムへやってきた。

偶然の出会いだった。

「ちょっとみてもらったら」とジムの男が言った。

そこで即席の指導が行われた。

「ジャブ、打ってみなよ」

福田がジャブを打つ。

もう一度、と春日井が言う。

春日井の身長は一六五センチだから、一九三センチの福田を見上げるようなかたちになるが、その欠点をすぐに指摘した。

「ウーン、それじゃダメだな、極端に言うと、パンチの軌道が円を描いているんだよ。肘が外に出すぎている。それじゃモーションが大きすぎて相手にスグ読まれちゃうよ。拳はアゴの下から相手の顔へ真っ直ぐ出さなくちゃ。肘は外に出さない」。

こうやるんだよ、と春日井は手本を見せた。

「自分のアゴから相手の顔までの直線、この最短距離にパンチを出さないと、これが基本だよ」

じゃ次は左フック、と春日井が言った。福田は続けて二度三度シャドウをした。

「違う、違う。パンチを出しながら左から右へ体重移動していく、その移動が真ん中になったときに左足が返っていて、その後、腰の回転を使って打つんだよ」。

春日井は再びスローモーションで手本を見せた。

ああそうか、すごく分かりやすいな。ごく簡単な指導であったが福田はそう思った。

後日、佐藤と会ったとき福田は春日井との一件を報告した。

「そうかそんなに分かりやすかったか、それならトレーナーをその春日井さんに頼んでみるか」

何事にも、よし、と思ったら佐藤の行動は素早い。

早速、春日井へ連絡して、トレーナー就任の件を切り出した。

突然持ち上がった話に春日井はどう答えていいのか分からなかった。

「まず、一度お会いしてゆっくり話をしましょう」ということになった。

春日井は中学校のニ年生からボクシングをはじめた。

自宅は本牧で、おなじ横浜にある河合ジムに入り、高校卒業まで所属している。

高校はボクシングの名門校である横浜高校へ入り、高校三年の時にはインターハイのチャンピオンになっている。

学生の頃は、世界フライ級チャンピオンになった花形進のスパーリングパートナーをつとめていた。

「ああ、ケン坊ね」と今は花形ジムの会長になっている花形は春日井のことをよく覚えている。

「あいつはパンチもテクニックもあってね、スパーリングでもてこずることがよくあったよ」

プロ入り後は日本フライ級三位まで昇った。

創成期のIBF日本に籍を置いて、世界戦を行い引退している。

敗戦は最後の世界戦だけだ。

春日井はまた現役時代はボクサーとしては珍しく、戦う自分を演出することでも人気があった。

リング登場のBGMを自分で選曲し、髪型はグリースで固めたリーゼント、試合のポスターも自分でデザインした。

センスとスター性をもったボクサーとして人気作家山際淳司のノンフィクション短編の主人公に取り上げられたこともあった。

佐藤から話を聞いた幡野は春日井のことをよく覚えていた。

幡野が高校生の頃、ボクシング雑誌によく出ていて「春日井健いうたら、当時のボクサーの中でも格好良くて憧れの人やったから」だ。

佐藤と春日井は都内で会食した。

「今、ヘビー級を育てようと思っているんですけど、難しいですね」と佐藤が言うと、

「難しいですかね、フライ級もヘビー級も同じだと思いますよ」と春日井は涼しい顔で答えた。

実際、春日井はヘビー級だってそんなに特別なことじゃないと思っていた。

ボクシングの基本は同じだし、それに以前からヘビー級の選手に軽量級のスピードとテクニックを身につけさせることができれば素晴らしい選手になるだろう、と思っていた。

兄がアメリカに住んでいることもあって、自分も向こうに行って外国の選手を育てられたらと、漠然と考えていたこともあった。

春日井を知る人間には、テクニックとパンチ力でスマートに勝ち続ける、天才肌のエリートボクサーとして記憶に残されている。

しかし春日井は高校時代からボクシングについてトコトン追求していた。

 センスはあった。

そのセンスに磨きをかけたのは本人の努力だった。

 どうしたら強いパンチが打てるか。
 
 どうしたらスピードをつけられるか。

 どうしたら効率よく相手のパンチをかわすことができるか。

春日井にボクシングの師匠はいない。

自分で考え、練習方法を編み出し、ひとつひとつの技術を、力を身につけていった。

大学生の時、コーチに「君は何でも知っていて、教えることがなくてツマラナイ」と言われたことがあった。

プロになっても技術的なことはトレーナーよりもずっと知っていたし、勉強していたし、また練習もしていた。

そんなボクサーだった。

だから、自分の身を削ってものにした技術や経験を活かせばトレーナーとしてやっていく自信はあった。

「選手はそう簡単に育つものじゃないですよ。オーディションで採用する選手が世界でどこまで通用するかまったく分からない。可能性がないとは言いませんが、いきなり世界クラスの選手が育つかは疑問ですね。五年、十年かかってやっと本物が育つ、そういうことは十分考えられます。会長はそういう気持ちで重量級を育てようとしているんですか」

「分かってる、それは分かってるよ、春日井サン。僕にだって今度オーディションでとった選手が世界クラスの実力をつけられるかどうかは分からない。もちろん順調に伸びていくことを期待しているけど、全員がそんな器じゃないかも知れないし、練習にネを上げて途中で逃げ出してしまうかも知れない。でもたとえそうなってもそれはそれでいいんだ。これから日本にもヘビー級を根付かせたい。底辺を広げたいんだ。そのためのまず第一歩ですよ。これから長い時間がかかってもいい。一緒に頑張っていってくれないか」

「近日中に返事をします」それで別れた。

引退してから春日井はボクシングからずっと遠ざかっていたし、現場に復帰することなど考えていなかった。

今回のこともひょんな縁から出てきた話だ。

春日井はこの席上、二、三年後には世界タイトルへ挑戦、なんて話が出たら、まずそこで帰ろうと思っていた。

ボクシングはそんなに甘いもんじゃない。

長い目でヘビー級を育てていくという心づもりが会長になければ、後で話がややこしくなる。それは確認できた。

もう一度ボクシング業界に戻ってみるか。

 いや、今さら戻ってどうする。

しかしヘビー級を育てるというのも興味のある話だ。

こんな話は二度とないかも知れなかった。

収入に関して言えば自営業を続けていく方がずっといい。


妻は「あなたのやりたいようにやればいい」と言った。


自分のやりたいように、か。

好きな道をとるか、安定をとるかで春日井は二日間考えた。そして、腹を決めた。

その日、佐藤は春日井から「トレーナーの件、承諾します」との連絡を受けた。


 選手もトレーナーも揃った。

 いよいよだな、これから日本のヘビー級に新しい歴史をつくるんだ、と佐藤はそういう思いをより強くした。